Mag-log inそれからも、慌ただしい日々が続いていた。病院での勤務に、地域医療連携プロジェクトの会議。回数は減らしたものの、隼人くんのクリニックにも、無理のない範囲で勤務を続けている。一つひとつの予定に余裕がないわけではない。けれど、病院で急な対応が入れば、その後の予定は簡単にずれた。隼人くんも、クリニックの拡大準備で忙しい。会う約束を立てても、私の勤務変更か、隼人くんの打ち合わせで流れてしまうことが続いていた。電話やメッセージは途切れていない。顔を見られないからといって、関係に不安を感じることもなかった。それでも、次はいつ会えるだろうと予定表を開く回数は増えていた。会えないことを、素直に寂しいと思うようになった。***その日、午後の診療を終えて医局へ戻る途中で、スマホが震えた。画面に表示されているのは、登録していない番号だった。忙しい時間なら出なかったと思う。ただ、市外局番にどこか見覚えがあり、廊下の端へ寄って通話ボタンを押した。「はい」『白松綾香様のお電話でよろしいでしょうか』落ち着いた男性の声だった。「そうです」『白松先生の秘書をしております、森本と申します』父の秘書だと分かり、無意識に背筋が伸びる。これまでにも、家の行事や必要な連絡が秘書を通して届くことはあった。「お世話になっております」『突然のご連絡で失礼いたします。先生より、一度お食事の席を設けたいとのことで、ご連絡いたしました』「食事ですか」『はい。現在進められている地域医療連携と、新設病院の事業について、関係者で意見を交わしたいとのことです』仕事の話なら、私が呼ばれる理由は分かる。プロジェクトでは、病院と地域側をつなぐ立場で意見を求められることが増えていた。真哉兄さんが関わる病院建設とも、実際の運用を考える上で接点がある。「日程は決まっていますか」『候補日を、後ほどメールでお送りいたします』「分かりました」そのまま通話が終わりそうになり、私は確認のために尋ねた。「ほかには、どなたが参加されますか」電話の向こうで、紙を確認する音がした。『白松先生と、真哉様。綾瀬医療法人からは、綾瀬博人様と郁人先生にご出席いただく予定です』郁人先生も来るらしい。ただ、病院事業についての会食であれば不自然ではない。外科医として病院運営にも関わり、今回のプロ
「別に」そう言って。カップへ視線を落とす。私は。話を終わらせるつもりで、空いたカップを重ねた。「郁人先生も」「忙しそうだよね」「兄貴は仕事しかしないから」隼人くんが答える。「バツイチだし」手が止まる。「隼人くん」「何?」「本人が話していないことを」「私に勝手に言わないで」隼人くんが。少しだけ目を見開いた。「別に」「隠すような話じゃないよ」「隠すかどうかを」「隼人くんが決めることじゃないでしょう」私は。カップを流し台へ置く。「郁人先生が」「自分から話していないなら」「私が知る必要もない」隼人くんは。すぐには答えなかった。さっきから。郁人先生の表情を気にしている。私がどう受け取るのかを。確かめようとしている。だから。わざと距離を置かせるような話を。したのかもしれない。「ごめん」やがて。素直に言う。「言わない方がよかった」「うん」「もう言わない」「そうして」短いやり取りの後。隼人くんは。まだ少しだけ納得していない顔で。こちらを見ていた。「綾香ちゃん」「何?」「兄貴のこと」一度。言葉を選ぶ。「気になる?」問いは。思っていたより直接だった。「仕事で関わってる人としては」私は答えた。「気になることはあるよ」「そういう意味じゃなくて」「それ以外には何もない」答えは。すぐに出た。過去に。縁談の候補だった。そのことを知った時は。少しだけ考えた。もし、優との話が進んでいなければ。会っていたのだろうかと。けれど。始まらなかった過去だ。今の気持ちとは関係ない。「郁人先生とは」私は続けた。「病院でもプロジェクトでも」「これから話す機会があるでしょう」「だから」「普通に話せる方がいいと思ってる」隼人くんは。まだ少しだけ不満そうだった。「分かった?」「一応」「一応って何?」「綾香ちゃんは」少しだけ。声を低くする。「自分が人からどう見られてるか」「分かってないことが多いから」「何の話?」「別に」また。そう言って目を逸らす。私は。小さく息を吐いた。「私が誰と話していても」「勝手に意味をつけないで」「分かってる」「本当に?」「分かってるけど」隼人くんが。少しだけ口元を歪める。「兄貴が」「綾香ちゃんにあん
郁人先生は。書類を渡すだけのつもりだったらしい。けれど、診療も終わっていたため、少しだけ休憩室へ寄ることになった。私がコーヒーを用意し、三人で小さなテーブルを囲む。郁人先生は。クリニックの中を一度見渡した。「思っていたより広いですね」「最初は、もっと狭かったよ」隼人くんが答える。「拡張後は?」「診療室を増やす」「人員は」「今探してる」兄弟の会話は。すぐに仕事へ戻る。郁人先生は、隼人くんの計画へ必要以上に口を出さない。ただ。確認すべきことだけを尋ねる。隼人くんも、少し面倒そうにしながら、答えることは答えていた。「白松先生は」郁人先生が、私へ視線を向ける。「拡張後も、こちらで勤務を?」「今より増やす予定はないです」「病院が中心なので」「専門医の方は」不意に尋ねられ。少しだけ姿勢を正す。「今のところ、順調です」「必要な研修も、予定通り進んでいます」郁人先生は。私の表情を確認するように、一度だけ目を細めた。「夜勤も増えていますか」「少しずつ」「無理に症例を取りにいかない方がいいです」「やっぱりそうですか」「数だけを追うと」郁人先生は淡々と言う。「判断が雑になります」「今の病院で取れるものを」「確実に積み上げればいいと思います」励ますような声ではない。でも。できることを前提に話している。その距離が、郁人先生らしかった。「ありがとうございます」私が答えると。郁人先生の視線が、また少しだけこちらへ残った。以前より。私の顔を見て話す時間が長い。言葉だけではなく。受け取り方まで確認しているように見えた。「プロジェクトでも」郁人先生が続ける。「病院と地域側の両方を知っていることは」「役に立っていると思います」「そう言ってもらえると」私は少し笑った。「安心します」郁人先生の表情が。ほんのわずかに緩んだ。通常、女性の医師やスタッフと話す時には。ほとんど見せないような。静かな柔らかさだった。私自身は。それを特別なものとは思わなかった。仕事で話す機会が増えたから。少し慣れただけだと思った。けれど。隼人くんは違ったらしい。カップへ伸ばした指が。途中で止まっていた。***「兄貴」隼人くんが言う。「そろそろ戻らなくていいの?」郁人先生が時計を見る。
忙しい日が続いていた。病院の勤務とプロジェクト。わずかに残しているクリニックでの診療。一つずつは無理のない予定でも、重なれば一週間はすぐに埋まる。隼人くんも、クリニックの拡大準備で以前より忙しくなっていた。会おうとしても予定が合わない。それでも、短い電話やメッセージは続いていた。以前のように、会えないことを関係の不安へ結びつけることはなくなった。ただ、顔を見たいと思うことは増えていた。***その日は、久しぶりに隼人くんのクリニックへ入る日だった。午後の診療を終え、記録を確認していると、受付の方から聞き慣れた声がした。「隼人」顔を上げる。入口に、郁人先生が立っていた。白衣ではなく、濃い色のコートを着ている。手には薄い書類ケースを持っていた。「兄貴」隼人くんが、院長室から顔を出す。「来るなら連絡して」「しました」「直前にでしょう」「近くまで来ていたので」隼人くんは、誰とでも器用に距離を取る。相手に合わせて口調を変えながら、自分の内側までは簡単に見せない。けれど。兄を相手にしている時だけは、少し言葉が雑だった。一方の郁人先生は。病院で見る時と変わらず、整っている。必要なことだけを口にし、余計な反応を見せない。その郁人先生が、こちらへ視線を向けた。一瞬。ほんのわずかに、表情が止まった。「白松先生?」普段より。少しだけ早い声だった。「お疲れさまです」私が立ち上がると、郁人先生はすぐにいつもの顔へ戻った。「隼人のクリニックで働いていたんですか」意味を測りかねる言い方だった。驚いているだけなのか。何か別のことを確認しているのか。「はい」私は答えた。「今は少しだけですけど」「病院へ戻る前は、もう少し多く入っていました」「そうだったんですね」郁人先生は短く頷いた。その視線が。私から隼人くんへ移る。隼人くんも、郁人先生を見ていた。兄弟の間に。短い沈黙が落ちた。「知らなかった?」隼人くんが尋ねる。「聞いていませんでした」「わざわざ話すことでもないから」軽い言い方だった。けれど。家族だからといって、何でも共有する気はない。そんな距離が、言葉の端ににじんでいた。***「それで」隼人くんが、郁人先生の持つ書類ケースを見る。「何の用?」「父さんの秘書からです」郁人
「東郷家との共同プロジェクトも、重要な時期だった」「お前も優との結婚に異を唱えなかった」「だから、綾瀬家の話は表に出なかった」「なかったんじゃなくて?」「候補としてはあった」あまりにも現実味がない。「聞いてない」「お前へ伝える必要がなかったからな」「必要がなかった?」「優との話が進んでいた」兄にとっては、それで説明がついているのだろう。二つの候補を並べて、私に選ばせる必要はない。私が優との結婚に反対していない以上、別の話を表へ出す意味もない。父も。真哉兄さんも。そう考えていた。「郁人先生は、知ってたの?」「分からない」「綾瀬家の中で、どこまで共有されていたかは知らない」「じゃあ、本当に家同士の候補だっただけ?」「そうだ」少し間を置き、兄が続ける。「少なくとも、当時はな」また。当時は。という言葉が残る。「もうない話でしょう」私は言った。「今のところ、俺は何も聞いていない」「なら、ない話じゃない」「そう思っていればいい」「何それ」「現実に、何かあるのか聞いてはいないけど」兄は悪気なく続けた。「ただ、父さんの中で、一度も存在しなかった話ではないし」「お前がこれから綾瀬家と関わるなら、知らないままでいる必要もないと思った」それが、兄なりの誠実さなのだろう。今後、私が綾瀬家と関わる可能性があるから、必要な情報として先に伝える。けれど同時に。家が私の結婚相手を候補として考えること自体を、不自然だとは思っていない。「隼人くんには、言った方がいい?」「それは、お前が決めろ」「今すぐ話す必要は?」「ないだろう」「隠す必要も?」「ない」「どっちなの」「何も起きていない話だからだ」結局。伝えるかどうかは、私に返された。***もうない話でしょう。自分で、そう言った。実際。郁人先生とは、病院とプロジェクトで仕事をしているだけだ。過去に家同士で名前が出ていたとしても、私たち本人には何もなかった。今も、何もない。それなのに。少しだけ考えてしまう。もし、東郷家との話が先に進んでいなければ。私が優との結婚に反対していたら。私は、郁人先生と会っていたのだろうか。家同士が用意した相手として。向かい合って、話をしていたのだろうか。今と同じように、言葉の少ない人だと思ったのか。
真哉兄さんの車が、夜の道を走り始めた。店を出たばかりの通りには、まだ人が多い。信号の赤が、フロントガラスへ淡く映っていた。しばらく、兄は何も言わなかった。隼人くんのことを考えているのか。それとも、食事の場で確認したことを、自分の中で整理しているのか。兄の横顔からは分からない。「どうだった?」私から尋ねた。「何が」「隼人くん」兄は前を見たまま答える。「思っていたより、まともな人だった」「何それ」「褒めているんだよ」「全然そう聞こえない」「家の名前を、自分をよく見せるために使わないのがいい」兄の中では、かなり肯定的な言葉なのだと思う。「良かった」小さく答える。「ただ」兄が続けた。「家を継ぐ気がないことは、少し意外だった」「前からそうだよ」「本人から聞いたの?」「うん。家の医療法人とは、距離を置きたいって」「それでも、必要なら家の力は使う」「隼人くんは、そういう人だと思う」家のすべてを嫌っているわけではない。自分が必要だと思えば、利用することも否定しない。でも、家に用意された場所へ戻るつもりはない。「真哉兄さんには、理解できない?」私が尋ねると、兄は少しだけ考えた。「理解はできる」「納得は?」「それは別かな」やはり。真哉兄さんは父に近い。家を引き継ぐことも、その中で役割を担うことも、自分の人生から切り離して考えたことはないのだと思う。「誰でも、家からは完全に自由ではいられないよ」兄が言う。「隼人さんも、お前も。俺もね」「それでも、選べることはあるでしょう」「あるよ、その通り」兄は否定しなかった。「家のために、無理に何かを捨てる必要はない」そこで終われば、物分かりのいい兄に聞こえた。けれど、兄の話は続いた。「ただ、父さんが何かを考えている時に、知らないままでいるのも違う」「またその話?」「何を考えているのか確認して、その上で自分の意見を伝えろ」「言うことを聞けってこと?」「違う」兄は少しだけ眉を寄せた。「父さんが何を考えているのかも知らずに、嫌だと言っても話は進まない」「話を聞いて、私が断ればいい?」「必要ならな」「それでも、最初から家の話し合いに参加することが前提でしょう」「家の人間だからだよ」あまりにも自然に言う。兄は本気で、私の意思を尊重しているつ
青山駅前のカフェは、平日の夜なのに妙に混んでいた。窓際の席で、大きく手を振る女がいる。派手な金髪ボブだからこそ、いつもすぐに見つけられる。「綾香、こっち」香山みか。高校1年からの付き合いで。大学も違ったし、就職後はお互い忙しくなった。それでも。私が唯一、本音を言える相手だった。席に着いた瞬間。疲れ果てた表情が滲み出ていたのだろうか。みかの表情が固まる。「……え、待って」眉を寄せる。そして、急に顔が険しくなった。「本当にどうしたの、その顔」私は苦笑いした。「そんなにひどい?」「ひどすぎるレベル。大学のときに元カレに振られた次の日みたい」その言葉に、なぜか笑ってしま
6月10日。4回目の結婚記念日。そして——私が、あと1年で離婚しよう。そう、決めた日。本当なら、こんな日になるはずじゃなかった。少なくとも、4年前の私はそう思っていた。その日の午後6時にちょうどなった。さっきから、時計が次の針に進むのを見つめては。帰ってこない夫への諦めが募り。ため息が溢れた。私東郷綾香(とうごうあやか)はテーブルの上にまだ湯気の立つ料理を並べる。壁の時計をもう見たくなかった。さっきから、穴が開くほど見つめている。夫である東郷優(とうごうゆう)の帰宅予定は、7時だったはず。もう、1時間前なのに。連絡は、全く取れずにいた。まだ、遅くない。——期待なんて
「……行かなきゃダメなの?」空気が、一瞬止まった。優の口からそんな言葉が出るとは思わなくて、私は少しだけ目を瞬く。「……え?」聞き返すと、優は一瞬だけ視線を逸らした。そして、いつものように少し面倒そうな顔をする。「別に」そっけなく、理由を説明することが煩わしいという態度だ。「最近、変な勧誘とか多いし」….言い訳みたいだった。私を心配している、というには雑で。でも、完全にどうでもいいなら出てこない言葉。その曖昧さが、妙に引っかかる。咲子さんが、ふっと笑った。「あー、優ってほんとそういうとこ心配性だよね」その言い方が、あまりにも自然だった。昔から知っている人の声。
「……誰それ?」優の声に、思わず指が止まった。寝室へ向かおうとしていた足も、その場で止まる。振り返ると、優はソファに座ったままこちらを見ていた。正確には、私ではない。私の手の中にあるスマホ。そこに表示されている名前を見ている。【綾瀬隼人】たった四文字の名前。それだけなのに、優は珍しく視線を外さなかった。私は少し戸惑う。こんなこと、今までなかった。私が誰と会おうと。誰と連絡を取ろうと。優は興味を示したことがない。会社の同僚。学生時代の友人。みかのことだってそうだ。誰とどこへ行くのか聞かれた記憶はほとんどない。だからこそ、その反応が妙に不自然だった。「……知







